タイトルが長くなりましたが、中級武士→家老→お殿様のお庭くらべをしてみました。
第一弾は、中級武士の寺島蔵人邸です。
目次
中級武士の寺島蔵人邸
まずは、今から240年前の加賀藩、中級武士のお屋敷を見てきました。
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中級武士とは、収入にして100石から1000石。
寺島家は、450石あったそうです。
石高は、畑・屋敷地などの生産高を米の量の表したものです。
一石は、お米150kg、現代の金額にして約75000円。
450石の武士は、現代では、3375万円の収入です⁉︎ すごいね。
石高
江戸時代のお金の価値
このお屋敷が建つ裏路地は、混雑する表通りを避けるためにいつも通っていて、
前々から興味のあった建物でした。
寺島蔵人邸のアクセスと料金は?
所在地:石川県金沢市大手町10ー3
休館日 年末年始と展示替えの日
料金 大人¥300 高校生以下 無料
お抹茶 ¥300
寺島蔵人の内部は?
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玄関から、茶室方向を見る
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床柱は、部屋が広く見えるよう?節約のため?ありません。
掛け軸は、浦上玉堂。
本物は、別保管で、これはレプリカです。
浦上玉堂とは?
若年より、学問、詩文、七絃琴などに親しむ。鴨方藩の大目付などを勤める程の上級藩士であったが、琴詩書画にふける生活を送っていたことから、周囲の評判は芳しくなかったらしい。50歳のとき、武士を捨て、2人の子供(春琴と秋琴)を連れて脱藩(妻はその2年ほど前に亡くなっていた)。以後は絵画と七絃琴を友に諸国を放浪、晩年は京都に落ち着いて、文人画家として風流三昧の生活を送る。特に60歳以降に佳作が多い。代表作の「凍雲篩雪(とううんしせつ)図」は川端康成の愛蔵品として知られる。
ーWikipediaよりー
部屋の後ろに見える廊下は、鶯張り(うぐいすばり)になっていて、歩くとギシギシ音がします。
鶯張りとは?
ー Wikipediaよりー
和室から玄関を見る。
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茶室の床の間です。
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9月なので、中秋の名月。
月の題の掛け軸ですね。
蔵人が自身で描いた絵や、書が展示されています。
茶室からのお庭
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お抹茶は、茶室でいただけて、¥300です。
良心的なお値段です。
抹茶碗は大樋焼。
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東山のお茶屋さんでは、6万円でした!
『乾泉』の名入りの特注だからそれ以上ですね。
寺島家は、茶道は金森流だそうです。
裏と表しか知りませんでした。
金森流とは?
初代金森宗和は、はじめは可重の嫡子として高山藩にあったが、廃嫡となり宇治・京都に移って茶の湯に専念する。最初は父譲りの道安の流れを汲んでいたと思われるが、古田重然や小堀政一の影響を受けながら後水尾院をはじめ公家との交流のなかで「姫宗和」と呼ばれる優美な茶風を築きあげた。加賀藩3代藩主前田利常より召し抱えの意があったが、宗和はこれを辞して2代七之助方氏が出仕した。これより代々、金森家は金沢にあって加賀藩に仕え1700石を領した。
7代知直の時に金森家は一時断絶となり、推挙により多賀直昌が宗家を継承することになった。8代多賀直昌は5000石を賜っていたが、宗家継承に際し隠居して茶道に専念し、中興と称されている。金森家は後に知直の実子である金森信之によって再興されたが、明治以降のことは不明である。
また宗和の門人である和泉陶器藩主小出三尹に宗和の妹が嫁いだことから、陶器藩および高山藩でも宗和流が行われ、高山藩が天領に転じて後は寺院を中心に伝承されて現在に至っている。
ーWikipediaよりー
寺島家の家紋が入った干菓子。
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寺島蔵人邸の庭園
では、実際にお庭に出てみましょう。
ドウダンツツジが咲く春や紅葉の時期はキレイでしょうね。
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蔵人が描いた絵
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絵は、玉堂から手ほどきを受けたとありますが、玉堂の水墨画とは画風が違いますね。
ラピスラズリは、外国の岩絵具なので、当時、高価なものをどうやって手に入れたのか、オランダ写しの絵皿もあるので、外国への憧れがあったのか、など想像すると面白いです。
オランダ写しの絵皿
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寺島蔵人がいた時代と寺島蔵人はどんな人?
時代は、西暦1770年ごろ。
江戸時代、将軍は11代徳川家斉(いえなり)。
家斉は、贅沢三昧の生活を送っていました。
政治には関心がなく家臣にお任せで、町人文化が栄えました。
老中、田沼意次や松定忠信が政権争いをしたり、間宮林蔵が樺太を調査。
異国船撃ち払い令が出されました。
さいごに
紅葉を見にきたはずなのに、主婦目線で庭づくりも見てしまったわたくしでした!
質素倹約な生活の中に、ラピスラズリにような高価な絵の具を使っているのが不思議に思い質問したところ、解説の方がおっしゃるには、お付き合いが大変だったんです〜、とのこと。
加賀藩の下級武士がつけた家計簿もついでに読んでみようと思いました。
これを皮切りに、次は、家老の庭めぐりに向かいます。